空中浮遊樹



2024.01.01.



 今日もまた同じ夢を見た。これで一週間連続だ、あの絵を見たせいだろうか。
 一週間前、最近になって通い始めた花屋で、店の奥の本棚に「世界の不思議」という本が立てかけてあるのを見つけた。花屋のマスターが所有しているこの本は、あちこちでページが脱落していて、絵はあるのに解説が無かったり、解説はあるのに図が無かったりする。その中に、空中に浮かぶ樹の絵があった。この「空中浮遊樹」arbo aerofluitanteの項目も、説明文が無くて樹の絵だけしか残っていなかった。その絵を見た時、なぜか懐かしい気持ちがあふれて、涙が流れ出て止まらなくなったのだ。そしてその日から毎晩同じ夢を見るようになった。
 今日はもう一度花屋へ行って、マスターがあの絵の記事を知っているか尋ねてみよう。

 仕事を終えての帰路、花屋に寄った。マスターは店に居なかった、でも緑恵さんが居た。緑恵さんはこの店の看板娘、決して絶世の美人と言うわけでは無いが数えきれないファンが存在する。彼女は新緑の森の香りを放っていて、周囲の人たちを和ませる。噂によれば植物と話が出来るらしい。ある時マスターに彼女の素性をそれとなく聞いてみたが、黙って微笑んでいるだけだった。そんな緑恵さんに僕が見た夢の話をしようか迷ったが、夢占いで変な性格を言い当てられそうな気がして、夢の事は言わず、本の事だけを尋ねた。
 「緑恵さん。マスターが持っている、世界の不思議、っていう本、読んでます?」
 「はい、もちろんです。」と彼女は答えた。そりゃ当然だよな。
 「あの本の中に、空中浮遊樹、という絵がありますよね。その樹の事、何かご存知ですか。僕も興味を持ったのですが、あの本では解説のページが無くなっていて、詳しい事が分からないんですよね。」
 緑恵さんは、店の奥の本棚から、その本を持って来て、そのページを開いた。
 「ああ、これですね。私も実物を見たことは無いので、他の人から聞いた話以上の知識は無いのですが、知っている範囲でお教えしますね。この樹は体内にメタンをためる事が出来るらしいです。ただし自分で合成するんじゃなくて、細胞間質に空胞を作って、その中にメタン産生細菌を育てるんだそうです。この空胞は弾力性が高くて、大きく膨らむことが出来るんです。それで、自分の本体の何倍もの体積のメタンガスを貯めて、空中に浮かぶんだそうですよ。ほら、メタンって空気より軽いでしょ。」
 「なるほどね。でも、植物だから水が必要ですよね。それはどうするんですか?」
 「長い根を下ろして、雲の中の水分を吸収するそうです。」そして少し考えてから続けた。「えーっと、私はこれくらいしか知りません。マスターならもっと知っていると思います。マスターは明日は店に出ますから、明日またお出でになって質問されてはどうでしょう。」
 「そうします。」と答えて、その話題は終えた。そして、緑恵さんが動くたびに溢れてくる爽快な空気を味わいながら、しばらくの間とりとめもない話をして帰った。その晩は、あの夢は見なかった。

 翌日の会社帰り、再び花屋を訪れた。この日は緑恵さんの方が不在だったが、彼女は前日の事をマスターに伝えてくれていたらしく、マスターは僕の姿を見ると店の奥に誘い、椅子を勧めてハーブティーを入れてくれた。
 「さあて、緑恵さんが教えた事に追加して、どんな事が知りたいですか?」机の向かい側に座ってハーブティーを飲みながら、マスターが僕に問いかけた。
 僕は尋ねた、「そもそも、空中浮遊樹というのは、本当に存在するんでしょうか?そんな不思議な樹があれば、大騒ぎになるだろうと思いますが。」
 「おっしゃる通りですね。でもね、この樹は世界中どこにでも存在する訳ではないんですよ。どんな季節でもどんな時間でも、三百六十五日、二十四時間、いつも雲がかかっている所でしか育たないんです。そういった場所は地球上で、ごく限られた地域しか無いんです。そして、その様にいつも雲に覆われた所だと、地上からは見えないし、宇宙から見ても分からないんですよ。」
 「ああ、そうか。でも空中に浮かんでるのなら、何処か他に流されていく事はないんでしょうか。」
 「普通は偏西風と貿易風のはざまに漂っていて、そこから外れると枯れて崩れて飛び散ってしまうのですけど、ごくたまに、台風やハリケーンのような大きい雲の塊に乗って他の地域に漂流する事もあるようです。でも、それがまさか空中に浮かぶ樹だとは、皆さん考えないみたいですよ。例えば日本では、樹の根を蜘蛛の糸と間違った人が居ますね。ヨーロッパでは、小さな男の子が根を登って行って、途中の根粒菌をもぎ取って帰ったと言う話があります。もっとも話には尾ひれがついて、その根粒菌が黄金だったとか、雲の上に巨人が居たとか、それは豆の木だったとか、誇張され脚色されて伝わっているようですけどね。」
 話を聞いて、空中に浮かぶ樹の存在が確信に近くなった僕は、マスターに例の夢の話をした。

 僕たちは炎の中を逃げ回っていた。ただし、僕はまだ小さくて、女の人の腕に抱かれていた、それはたぶんお母さんだろうと思う。お母さんをかばうように男の人が上から覆いかぶさっていた、それはたぶんお父さんだろうと思う。住んでいた樹が雷で引火して火災を起こし、保存していた緊急用の浮揚枝も燃えてしまった、残っているのは小さな葉っぱだけだ、とお父さんは言った。そして、「この子だけでも生き延びさせるんだ」と言って、僕をその葉っぱに載せた。お母さんは僕の体を引き戻そうとしたが、お父さんはその動きを押し止めた。そして僕が乗った葉っぱを押し出した。僕は数枚の膨らんだ葉っぱに覆われて空中に浮かんだ。目の前を大きな炎の塊が落ちて行く。その炎の中にお母さんとお父さんの姿が見えた。本当はその姿は瞬く間に視界から遠く離れて行ったはずなのに、僕の眼には何時までも何時までも、炎の中に二人の姿が見えた。けれども、二人の顔を思い出そうとしても思い出せない。なぜ思い出せないんだろう、どうすれば思い出すんだろう、苦しくて大声を出しそうになって、そこでいつも目が覚める。

 マスターは黙って僕の話を聞いていて、僕が話し終わった後も、しばらく考え込むように目を閉じていた。そして口を開いた。
 「興味深いです。本当に興味深い夢です。空中浮遊樹で生活する事が出来る種族が居るとすれば、とても関心をそそる話です。ちょっと想像してみましょう。この樹が育つのは上空数千メートルの場所ですから、夜は氷点下の温度になりますね。でも、はぎ取った樹皮や、メタンガスが入っていた空胞の壁を使って居住場所を作ることは可能でしょう。メタンの一部を利用して暖を取る技術も獲得しているかもしれない。食べ物はどうするでしょうねえ。一番手近なこの樹を食料にする、というのが合理的な方法ですが、だとすると植物のセルロースを分解できる腸内細菌が発達しているかも知れません、ウシやヤギのように。それと、もう一つの問題点は、酸素分圧が地上より何十パーセントも低い大気の中で、どうやって効率よく呼吸するかです。きっと特殊な酸素交換システムになっているでしょうね。」
 僕はマスターの話を聞いて、自分の身体の事を語るべきか考えていた。僕は菜食主義で通っている。だが、実際の所は僕の消化管の働きは皆が思っている以上なのだ。僕は完全に野菜だけで生きて行ける。さらにもう一つ、病院で血液検査をした時に知らされた。僕の赤血球の中にあるヘモグロビンは、半分が酸素保持能力が高い胎児ヘモグロビンなのだ。そして、通常の何倍もの濃度のジホスホグリセリン酸が存在する。その結果、体の組織へ酸素を受け渡す能力は、チベットの高原に住む人達を遥かに上まわるのだと。
 そして、両親の事も。僕の両親は以前コロンビアの森林で研究活動をしていた。その場所から帰る直前に僕が生まれたと教えられている。だが最近になって、僕は自分が養子ではないかと思い始めた。皆に言われるのだ、僕は父にも母にも似ていない。ただ、両親とその話をする機会は失している。
 マスターにそういった事情を話すべきか、迷っていた。すると、マスターが再び僕の方に顔を上げて話し始めた。
 「これは私の個人的な意見なんですけどね。もしも私が、空中浮遊樹で生きる種族を見つけたとしても、それを世間に公表する事は無いでしょうね。彼らの生活圏は、私たちの生活圏と違って、これからも安定した状態が続くでしょう。温暖化で危機を迎えている地上の者達が、そこに無用な干渉を加える事は避けねばなりません。それを防ぐためにも、むしろ秘密にしておくべきだと考えますよ。」
 そして、僕のカップを見てティーポットを持ち上げた。
 「ハーブティーをもう一杯、いかがですか。」
 「ありがとうございます。いただきます。」
 僕は、ハーブティーがカップに注がれるのを見ながら思った。僕の事情は今すぐ急いで伝える必要性はない。いつか自分のルーツをもっと知りたいと思うようになったら、その時に改めてマスターに相談すれば良いではないか。そう考えると、今までの胸のつかえが取れて、気持ちが落ち着いて来た。
 マスターが再び話し始めた。
 「別の可能性も考えてみましょう。空中浮遊樹を食糧にしなくても生存できる他の方法があります。それは、浮遊樹の葉緑体を取り込んで自分で光合成をする能力を持つ事です。ミネラル等の微量元素に関しては、多少は浮遊樹に依存する部分もあるでしょうが、これなら宿主に大きな負荷をかけずに共生できます。」
 僕は、緑恵さんの肌が淡い緑色だったことを思い出した。





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