木守人たち



by 2024.03.03.



 --- シリーズ 緑恵さん、お日和はいかが #番外編 ---

 僕は前を歩いている緑恵さんに声をかけた。
 「緑恵さん、疲れていませんか?少し休みましょうか。」
 緑恵さんは足を止め、微笑みながら振り返った。
 「私は大丈夫です、水分補給さえ気を付けていれば、こんなお日和の天候は私には絶好のコンディションですから。」
 そして、彼女の足元で息を切らしている僕たちに言った。
 「でも、少し休みましょうか、カロリー補給した方が良いと思いますよ。」
 しんがりを務めていたマスターも、そうしましょう、と言って道ばたの岩に腰掛けた。
 このあたりまで登って来ると高い灌木は無くなり、麓の街も、その向こうの海もきれいに見渡せる。眼下にまだ残っている木々の緑を眺めながら、僕はアンパンとデザートのリンゴをゆっくりと味わいながら食べた。食べながら、ここ数か月の慌ただしい変わりようを思い出していた。この風景はいつまで保てるのだろうか。
 「さて、それじゃあもうひと踏ん張りしましょうか。」
 マスターの声で僕たちは立ち上がった。
 山頂に向かう道の途中で上から降りてくる登山者と出会った。習慣に従ってあいさつをして行き違っただけ、と思ったのだが、しばらく歩いて尾根を一つ越えたところでマスターが言った。
 「この山に種を置いていくのは中止しませんか、先ほど会った登山客が気になります。」
 「何か変なところがありましたか?普通の登山客のようで僕は気が付きませんでしたが。」
 僕がそう答えると、マスターは緑恵さんに語りかけた。
 「緑恵さんは、どんな感じがしましたか?」
 「私も、先ほどの人の行動には特別変わった様子は感じませんでした。ただ・・」
 緑恵さんは、思い出すように少し間を置いて言った。
 「ただ、傷ついた木から出る樹液の匂いを、とても強く感じました。」
 その言葉で、僕とマスターの今後の行動は決まった。今日の山登りは無駄足になってしまったが、このまま山頂を超えて次の峰を回り、反対側から戻って来る。マスターが言う通り、用心の上に用心を重ねた方が良い。それに、種を隠す場所の候補地は他にも探し出せるだろう。

 半年前にマスターから話を聞いた時は、僕はそれが信じられなかった。温暖化対策のために樹木を伐採するなどと言う馬鹿げた事が、起こるはずが無いと思った。だが、それがトレンドになってしまった。
 その論文は何年も前に発表されていたらしい。高温の状態では樹木は高濃度のイソプレンを排出するという報告だ。なるほど確かにイソプレンは温室効果ガスになり得る。しかし、それは樹木の多様な効用を否定できるほどのデメリットではない。だが、イソプレンの有害性一点に絞って、「温暖化した現在、樹木は温暖化をさらに悪化させるから伐採して炭酸ガスの貯蔵庫として利用すべきだ」と主張するネットニュースが流れた。木材の市場価格コントロール目的か、温暖化ガス排出権の売買に関わる勢力が背後にいたと言う噂もあるが定かではない。いずれにしても、そのニュースを流布する方法は極めて作為的だった。恐らく配信前に特定のグループがそれを知った、あるいは知らされていた。記事が掲載されるや否や、それをポジティブに評価するコメントが次々に書きこまれ、そのコメントに対して大量の「いいね」が押された。テレビや新聞よりもネット情報が正しいと信じている者たちが、さらにそれを拡散した。その後この国で、大衆の意見がどう変化するかは容易に想像できよう。

 その直後に総選挙があった。選挙前に突然現れた「命を守る会・柔風」なる政党が、全国にわたり異様なほど勢力的な運動を展開した。黄緑ネオンカラーの制服を着た若く清かなる運動員たちが、全国でこの政党への投票を熱心に呼び掛けた、あなた方の、そして子孫の命を守るために、ありとあらゆる方法を使って温暖化ガスの発生を抑える事は、緊急に実施すべき案件なのだと。そして、その最優先政策が樹木伐採なのだと。
 「命を守る会・柔風」は、国政選挙でも地方選でも第一党に躍り出た。
 僕がマスターから誘われたのはそんな時期だった。
****
 店の奥のテーブルで、前に座っていたマスターが突然に質問してきた。
 「あなたは、緑はお好きですか?」
 変な質問をするな、と思いつつ「好きですよ。」と返事した。
 すると次に、「黄緑はお好きですか?」
 今の時代、これはかなりリスキーな質問だ。けれどマスターは僕の思想をある程度知っているから、こう訊いて来たのだろう。少々先読みしすぎかなと思いながらも僕は答えた。
 「黄緑の制服は私の好みではありませんね。樹木伐採など愚策中の愚策です。」
 「分かりました、あなたの考えは強烈に分かりました。」マスターは苦笑しながら言った。そして続けた。
 「あなたにお願いしたいことがあります。私たちを手伝って頂きたいのです。ただしそれは、これから何年も、いやもっと続くかも知れません。そんな事になる可能性があるのですが、協力いただけますか?」
 「マスター、ちゃんと話して下さい。僕もおおよその推測はしているんですが、具体的にどんな事をするんですか?」
 「樹木の種子を保存する活動です。あなたもご承知の通り、この国の木々は危機に瀕しています。樹木伐採の政策が今後どれほど続くのか分かりません。でも、いつかは皆が正気に戻る事を信じています。その時に、この土地に木々を再生させるため、種を保存しておかねばなりません。まともな考えを失っている人達の眼から逃れるために、秘かに、です。」
 「ドングリや松ぼっくりの種を自宅に隠しておくんですね。」
 「それも一つの方法ではありますが、これからは、それさえ難しくなります。ドングリを持っているだけで罰せられる可能性が出てきました。」
 僕はまだ知らなかったが、樹木の種を保有すること自体が、近いうちに禁止されるらしい。法律を制定しようと言う動きがあるのは知っていた。だが、ドングリの工芸品や松ぼっくりの種を使った食品業者をどうするのだ、それにドングリを歌った童謡は今も親しく歌われているではないか、という声がまだ小さくないため、法律化は一旦見送られたはずだ。しかし政権政党が、樹木の種子の保有は、銃や覚せい剤の保有と同等の罪に相当すると閣議決定するというのだ。
 「そんな事になるんですか。」僕は唸った。
 「法規変更が何時になるか分かりませんが、計画を早める必要性が出てきました。種を隠しておくのです、これから何十年もの間、見つからない所に。つまり、高い山の上とか洞窟の中とか、人が行かない所に種を運んでもらう仕事を手伝ってもらいたいのです。協力していただけますか?」

 そして、この山に登って来た。最初に予定していた登り口では、すでに樹木の伐採が開始されていた。僕たちは場所を大きく変えて、別の小道から山頂に向かった。しかし、どうやらこの山は「命を守る会」の監視対象になっているらしいと、僕たちは山頂近くに行って気づいたわけだ。計画は変更せざるを得ず、僕たちは運んで行った荷物をそのまま持って下山することになった。
 思っていた以上に状況が急速に悪くなっている。
 出発する前日、市役所に勤めている彼が店に来て、僕たちの準備を手伝ってくれた。その時の言葉を思い出した。
 「本当は私も一緒に行きたいけど出来ないんです。市長が替わってから、市役所の職員の行動がスマホの位置情報で監視されているらしいのですよ。しかも、長時間スマホをオフにすると呼び出されて問い詰められるんです。申し訳ない。皆さんも、明日はスマホの電源切って動く方が良いと思います。緊急の連絡はマスターが持っている携帯を使ってください。確かあの機種は位置情報を入れなくても通信できるはずですよね。車のナビも電源オフにして、移動は地図とコンパスを使ってください。気を付けて行って下さいね。何か変だと感じたら、引き返して下さい。」
 彼が語った言葉は誇張では無かったのだ。すでに規制は始まっている。
 帰りの車の中では、3人ともほとんど無言だった。
 公園の横を通った時、木立の中に何台ものトラックが入り、作業服を着た大勢の人たちが機材を運び込んでいるのが見えた。
 「公園の木を伐採する準備が進んでいるようですね。」マスターが小声で言った。
 経済団体と懇意な知事は、以前からこの公園を商業施設に変える事を主張していたが、市民の反対が多く計画が頓挫していた。しかし、「命を守る会」の躍進で、公園を更地にして別の用途に使う動きが容易に進むようになった。前の市長がわざわざ移植したあのクスノキも、切り倒されてしまうのだろう。公園の中を見つめている緑恵さんの心の中を想うと、僕は声をかける事も出来なかった。

 その晩、花屋のバックヤードで、僕たちがやっと荷物を片付けて休んでいる時、誰かが店のドアをたたく音がした。何度も、かなり強くたたいている。
 「こんな遅くに、誰なんでしょうね?見てきますからお二人はここで待機していてください。」
 そう言ってマスターは店頭へ出て行った。僕と緑恵さんは奥の部屋で聞き耳を立てた。
 「おや、樹医の棟梁じゃないですか。どうしたんです。」
 「マスター、遅くに悪いな。まあ、ちょっと話を聞いてほしくてね・・」かなり酔っている様子だ。ちょっと座らせてもらうよ、と言って隅の椅子を動かす音がする。
 「今日ね、俺、公園の木を切って来たんだ。」
 「伐採したんですか。」
 「そう、樹医の俺がだよ。何してんだろうね。おかしいよね。」
 マスターは黙って聞いていた。
 「けどさあ、樹を育てる仕事なんて、もう回ってこないんだよ。樹医の仕事が無いんだよ。家族もいるし、従業員の生活も考えなくちゃいけないし、こんな事しか出来なくなったんだよ。」
 「生活がありますからねえ。」
 「そうだろ、そうだよな。」
 その後しばらく棟梁は黙っていた。そして突然こう言った。
 「実はね、俺、家の床下にドングリを隠してるんだ。」
 マスターは少し間をおいて答えた。
 「そうですか。」
 「いつか時代が替わったら、ドングリを育てるんだ。いっぱい、街中に・・」
 「街中に・・ですか。」
 この瞬間にマスターが考えている事は僕にも想像できる。可能であれば、この棟梁も樹木を守る活動に引き入れたい。けれど、彼は今、現実に木を伐採する側にいる。酔って語った言葉が本心かどうか分からない。ドングリの話も本当かどうか分からない。
 樹木伐採をこの国に広めた者たちは、何を狙っているのか。彼らの本当の目的は、こんな風に、他人を疑い、お互いを疑心暗鬼にさせる事では無いだろうか。だとすれば、その目的は極めて順調に達成されつつあると言えるだろう。それを克服する柔軟性が、果たして僕たちに、この国に、残っているだろうか。

 マスターが、出口へ歩く棟梁に声をかけていた。
 「棟梁、また来てください。そして、また話してください。私が聞きますから。」







蛇足:
温暖化対策の樹木伐採・・・必ずしも夢想と言い切れないかも知れない。
高温などのストレスに対して植物が分泌するイソプレンが温暖化の1因。二酸化炭素排出量を相殺する解決策として、樹木はもはや役立たない可能性がある、という論文。
1)Max K. Lloyd et al, Isotopic clumping in wood as a proxy for photorespiration in trees, PNAS (2023). 120 (46) e2306736120
2)Abira Sahu et al., Hydroxymethylbutenyl diphosphate accumulation reveals MEP pathway regulation for high CO2-induced suppression of isoprene emission, PNAS (2023) 120 (41) e2309536120

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