そして父でも無く



by 2022.10.16.



 「うん、そうやれば良いんだね、分かった。ありがとうパパ」
 ドアが半開きになった長男の部屋から声が聞こえてくる。そして部屋から出て来た彼は、居間に居る俺を見つけて、少しだけ驚いた表情を見せた。俺がいつもより少し早く帰って来るのを予想していなかったのだろう。そのまま横を通り過ぎようとする彼に声をかけた。
 「誰と話してたんだ?」
 すると彼は。「まあ、ね」とだけ答えて、玄関へ行き、「行ってきます」と声をかけて出て行った。分かってるよ、俺に声をかけたのではない、奥に居る母親に声をかけたのだな。
 その母親が、つまり俺の妻が、「いってらっしゃい」と言いながら奥の部屋から出て来た。俺の姿を見て、「あら、帰ってたの。今日は早いのね」と言う。そっけない言い方だが、相手にしてくれるだけマシか。唯一俺があいつより勝る点があるのを妻は認めざるを得ない。不本意ではあろうが、あいつにはフィジカルな事は出来ないからな。だが、それ以外はほとんどあいつとコンタクトを取っている。家計の事も、近所付き合いの事も、ドラマを見る時も。あいつは、妻に対してさえ、俺が聞いたら歯が浮くようなセリフを平気で言う。おだて上げるのがうまい。俺にはとてもそんな芸当は出来ないさ。
 「ただいま」娘が帰って来た。彼女は、居間に居る俺に気づくそぶりさえみせず、そのまま2階に駆け上がろうとする。
 「ちゃんと手を洗いなさい」妻が娘を呼び止めて洗面所に向かわせた。
 「何をそんなに慌てているの?」という妻の質問に娘が答える。
 「今日のテスト、模範解答がおかしいと思うのよ。パパに見てもらう」慌ただしく手を拭いて、娘は急いで2階の自分の部屋に上がって行った。
 暫くして、妻がめかし込んで部屋から出て来た。どうやら彼女も外出するらしい。
 「俺の夕食は?」と聞くと、
 「いつものレトルトが冷蔵庫にあるから、適当に選んで温めてよ」そう言って出て行った。多分ピアノリサイタルかコンサートか演劇か、そんな所だろう。軽妙なウンチクを垂れてくれる夫を伴って鑑賞する事だろう。ここに居る夫ではなく、スマホの中に住んでいるインテリで口のうまい夫と。

 あれは、1か月前の事だ。最初はいたずらかと思っていた電話に妻が興味を持ち、Universe Unitedなる組織のセールスマンの話を聞くことになった。家族のだれかが急に居なくなった時にそなえ、その家族の生前のデータから人格を再構成して会話できるアバターを造っておくサービスを提供しているというのだ。最初の1か月はお試し期間で無料、という所に惹かれ、世帯主である俺のアバターを造ってみる事になった。最初の数日は俺が今まで書いた文章やメイルを収集して人格構成する期間、その後の数日は、家族各自がパソコンやスマホで、出来たアバターと対話しながらスムーズな会話に調整する期間だった。どうやらその期間に、家族の面々が様々なオプションを取り込んだらしいのだ。スポーツインストラクターの能力、家庭教師の能力、芸術に関する知識云々。そして各々が父親、あるいは夫に適時的確なアドバイスやコメントを求めるようになり、アバターはそれに答える才覚を身に付けて行ったというわけだ。
 確かに今までも、家族みんなが父親を敬い恐れる、という様な状態ではなかったが、それでも父親で夫という何某かの威厳はあった。だが今では、家族はアバターの発言を信頼し、リアル父・夫は居ても居なくても分からない様な存在になってしまった。
 もちろん俺も、このアバターを利用する方法を考えた。会社の勤務を自宅勤務に切り替え、経済アナリストの能力を組み込んだバーチャル・俺に勤めを任せた。家族には黙っていて毎朝出勤のため家を出るふりはしたが、実は会社には行かず、公園でブラブラしたり、図書館や美術館や博物館巡りをして時間をつぶした。何度かパチンコにも行ってみたが、俺にはパチンコの才能は無いと悟った、あれは俺には向かない。それなりに面白い時を過ごしたとは思うが、少々退屈して来たので、明日は会社に出勤してみようと思う。

 久しぶりにラッシュアワーを経験して会社に着いた。勤める部署のドアを開けて「お早う」と声をかけたのだが、振り向いた同僚たちの表情は何かおかしい。皆驚いたような表情を見せている。奥に座っていた課長が立ち上がって歩いて来た。
 「君は、誰かね?」
 「いやだなあ課長、俺ですよ」
 「確かに、君にそっくりの男が以前ここで働いてはいたがね。彼はこの半月の間に驚異的な営業成績を上げて、社長直々のお声掛かりで3日前にバンコクの支店長として海外転勤になったよ」
 迂闊だった。この数日間俺のアバターの動向を確認していなかった。何かすごい事になるかも知れないと言っていたのはこの事だったのか。俺は冷や汗をかきながら言葉を繋いだ。
 「え、はあ、そうです。いや、ちょっと忘れ物をしましてね。取りに帰ったんですよ」何とも下手な繋ぎ方だ。
 課長は俺の方を睨みつけ、机の上のモニターを指さしながら言った。
 「いい加減にしたまえ。現に彼はバンコク支店でこうやって仕事をしているんだ」
 恐る恐る俺は聞いた。「在宅勤務、でしょうか?」
 「そうだよ。それがどうしたと言うんだ。とにかく、君が誰か知らんが、ここは君が居るところではない。さっさと出て行ってくれ」
 俺はまるでゴキブリを追い払うような扱いで会社から追い出された。

 なんてことだ、家だけでなく会社でも俺の居場所が無くなっている。むしゃくしゃした気分が収まらず、かといって憂さを晴らす場所も思いつかず、俺は公園の中で日暮れまでカップ酒をあおり、千鳥足で自宅に戻った。玄関の鍵が閉まっている。なあに、今までも時々こんな事はあったさ、と気を取り直し、誰かを呼び出そうとポケットからスマホを取り出した。が、電話しようとしてもソフトが受け付けない。「このアカウントは見つけられません。消去された可能性があります」などと、ふざけた表示を出してくる。ならば力づくだ、玄関のドアを拳で叩きながら叫んだ。
 「おい、開けろ。ご主人様のお帰りだぞ。世帯主のご帰還だぞ」
 玄関のドアの向こうからこちらを伺っている気配は分かるのだが、誰も出てこない。
 「開けないなら、蹴破って入るぞ」
 俺は酔ってフラフラしながら玄関に体当たりして行った。それを何度か繰り返していると、家の前にパトカーが来て止まった。降りて来た2人の警官が俺の腕を掴んで玄関から連れ出そうとする。
 「何をするんだ、俺はこの家の世帯主だぞ」呂律の回らない言い方で、そう告げると、
 「この家の世帯主?だと」警官はいぶかしそうに俺の顔を見た。しかし、その状況を確認する必要はあると考えたのだろう。警官は俺の腕を両方から捕まえたまま、玄関のインターホンを押した。
 「お騒がせして申し訳ありません。玄関の前で、この家の主だと言っている人物が騒いでいるのですが、それに間違いありませんか」
 すると、インターホンが答えた。
 「ご苦労様です。私はこの家の世帯主ですが、家におります。その人物の言っている事は何かの勘違いでしょう」
 「了解しました。いやあ、最近こんな勘違いをする輩がやたら多くて、我々も困っている所なんですよ。お騒がせしました、それでは失礼します」
 警官は俺を両脇からはさんで玄関から引き離し、パトカーの中に収容した。
 どこかへ向かって走るパトカーの中で、吐き気と眠気を覚えながら、俺は思い出した。アバターを造る際の契約書の最後の方に、こう書かれていたことを。
 「ご契約者様が失亡された際は、Universe Unitedが責任を持ってその後のフォローを致しますので、ご安心ください」
 あの時は、その意味を深く考えなかった。そうか、そういう事だったのか。だが、もう後の祭りだ。IDを消された俺には成すすべも無い。





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