幻翼痛



by 2024.01.01.



 以前から肩の痛みが気になっていた。それが徐々にひどくなり、最近ではしばしば激痛を覚える事がある。入浴中に時間をかけてマッサージしたり、電磁治療器という物も買って試してみたが、ほとんど効果が無かった。今日も作業中に、何度もパソコン画面から目を上げては背中を伸ばし肩をマッサージしていたら、廊下を通りかかった夫がそれに気づいたらしく、声をかけて来た。
 「どうしたの、肩こりかい?」
 夫の会社はコロナが五類感染症に変更されてから会社出勤が原則なのだが、今日は働き方改革に伴った出勤時間調整で朝から家に居る。そう言えば、彼もしばらく前まで肩や背中の痛みをしょっちゅう訴えていたはずだ。それが、最近はその事をあまり言わなくなった。
 「ねえ、あなたも肩こりが酷かったじゃない。もう良くなったの?何か良い方法があったら教えてよ。」
 「あ、言わなかったっけ。先月まで病院に通っていたんだけどね、もうすっかり痛みが取れて、病院へ行かなくても良くなったんだよ。」
こんな事をしても平気だ、という所を見せつけるように夫は肩をグルグル動かしながら言った。
 「病院の場所教えるから、君も行ってみなよ。でもね、先に言っとくけど、かなりユニークな治療だよ。」
 「なによ、それは。何か変な事するんじゃないの。」
 「怖いとか、痛いとかの類いでは無い。ま、行って試してごらん。」夫は意味ありげな笑みを浮かべつつそう言って、詳しい事は教えてくれなかった。

 翌日、夫が教えてくれた病院へ行った。スマホ上のマップにマークを入れてもらったのだが、病院は、さびれた繁華街の奥まった路地に立つ小さなビルの四階にあり、しかも看板がとても小さくて探すのに苦労した。あまり流行っていないのだろうか、受付の前の椅子には誰も座っていない。受診票に記入してIDカードと一緒に提出したら、直ぐに診察室に呼ばれた。ドクターは予想していたより若かった。無粋な白衣じゃなくて、濃い紺色のブレザーと蝶ネクタイ姿だ。前髪が少し長くて、太い眉毛に覆いかぶさっている。顔立ちは、ちょっと好みかも。
 問診の後、診察台にうつ伏せになって背中の検査を受けた。超音波のプローブのような物が使われたが、画面に現れる画像は今までお腹のエコーで見たことがある画像とは違っていた。神経と筋肉の電気と磁力を測っていると説明されたが、そう言われても何の事か良く分からない。
 「それは、どんな事を示しているのですか?」と訊いたら、
 「あなたの体が、治療に反応する体かどうかを調べているんです。」との答えだった。
 まだ分からない、という顔をしていたら、「治療を開始しながら、折々お話ししますよ。」と言われ、「それでは、早速治療に入りましょう。」と、隣の部屋へ案内された。
 その部屋には、頭の方が少し上になるように斜めになったベッドがあった。うつぶせに寝ると顔の部分に窓が開いていて、そこから機械のモニターが見える。画面には一対の羽のような物が映し出されていた。
 ドクターは再び私の背中をはだけて、肩甲骨あたりに何ヵ所か電極を貼り付け、そのコードを機械に繋いだ後で言った。
「さて、これで準備は終わりました。これからあなた自身で治療を進めて頂きます。」
 何の事を言ってるの?とキョトンとしている私に、ドクターは説明した。
 「あなたの背中の痛みは幻翼痛です。太古の昔にヒトが背中に持っていた翼が無くなったために発生しているファントムペインなのですよ。その翼を思い出して、羽ばたく感覚を思い出せば、痛みはとれます。」
 あっけに取られて聞いている私にかまわず、ドクターは続けた。
 「今、モニターに映っている羽は、あなたの背中に生えた翼だと思ってください。そして、それを羽ばたかせる様に動かして下さい。」
 突然そう指示されても、さすがに直ぐに理解する事は難しい。
 「先生、そう言われても、どうすればいいのか分かりません。」
 「大丈夫です。先ほどの検査で、あなたの背中には翼を動かす信号が伝わっている事を確認しています。動かそうと念じてください、動くはずです、さあ。」
 間違った所に来てしまった、と思った。夫はなぜ、こんなデタラメな病院を紹介したのだろうか、と腹が立った。けれど、途中で出て行くのは大人げないと考え、診療時間の三十分が終わるまでは我慢する事にした。
 電極を背中に着けてモニターを睨んでいたら、ドクターが近づいてベッドの横でささやいた。「あなたの背中には翼があるんです。背中に意識を集中してごらんなさい。まず、上に動かして見ましょう。次に下に動かしましょう。」
 その時、モニターの羽が少し動いた。「え、まさか。」と口に出しそうになった。
 「そうです、その調子です。」ドクターが静かに語りかけてくる。
 最初はドクターがモニターの動きに細工をしているのではないかと疑ったが、そうでは無かった。自分が思う方向に、思う速さでモニターの羽が羽ばたくのだ。一旦コツを覚えると、羽の動きはさらに力強くなっていった。
 こうなると、肩の痛みの治療が目的ではなく、羽ばたきの練習そのものが楽しくなり、週一回の通院が待ち遠しくなった。打ち上げと打ち下ろしの際の翼の動かし方、滑空のやり方、着陸の方法、それらをマスターするうちに本当に空を飛んでいるような爽快感を覚える様になった。それと共に、確かに肩の痛みは忘れていった。だが、痛みが消えるのとは逆に、肩甲骨の上端あたりに別の違和感が現れた。それが何であるかは、この時は分からなかった。

 そんなある晩、夕食の片付けも終わり着替えてベッドに入ろうとしていると、部屋に夫が入って来た。最近は二人は別室で寝るようになっている。あれは何時だったろうか、お互いのイビキがうるさくて眠れないと口論になり、以来一緒のベッドで眠った事が無い。二人とも夜の生活には比較的淡白なので、そのせいで日常生活に支障をきたす事はなかった。今日はどうしたんだろうか。彼は私の横に座った。
 「訓練はうまく行ってる?」夫が訊いて来た。たぶん病院での羽ばたき訓練の事を言っているのだろうと思い、「うん、うまく出来てるよ。」と答えた。「それは良かった。」と言いながら夫は私の手を握って自分の方に引き寄せ、「久しぶりだね。」と耳元でささやく。私も「久しぶりだね。」と反応しながら彼の腕にもたれかかった。
 一連の共同行為を終えて、甘美な疲労感に浸りつつ夫の体をもう一度引き寄せようと彼の背中に手をまわした時、そこに、有るはずのない物が有るのに気づいた。
 「えっ、あなた、これ何?」
 夫は私の胸に顔をうずめたままつぶやいた。「これって、これの事かい。」そう言って、背中のそれを羽ばたかせた。それは掌ほどの小さな一対の翼、いや翼と言うより、イラスト等でコミカルに描かれた天使の羽に近い。
 「これは何?羽みたいだけど。」私が訊くと夫は「そうだよ、僕の羽だよ、翼だよ。」と答え、またその翼をパタパタと羽ばたかせた。
 「君も病院で説明されたでしょ、肩の痛みの原因は幻翼痛だって。それで、自分の翼を動かす事が出来るようになれば、肩の痛みも無くなるってさ。」そして夫は顔を上げて続けた。「でもね、誰でも翼が生えてくるわけじゃあ無いらしいよ。特別な遺伝子を持った者だけだそうだ。君はどう?病院で何か言われた?」
 私はまだその説明を受けていない、と伝えると夫は、「そうなんだ。」と言ってベッドから起きた。パジャマを着ながら、「治療を始めてからまだ時間が経ってないからね。翼が生えないのかどうか、まだ分からないよ。」と、少し優越感を示すような言い方で私に語りかけ、私の額にキスして部屋を出て行った。

 私は実際の所、期待していた。夫のそれよりもずっと大きくて美しい翼が生えてくる事を。だが、私の背中に発芽したのは、黒くて棘のある突起物だった。天使の羽には程遠い。黒い突起は徐々に大きくなった。やがて背中から臀部に達する程に成長し、さらに、突起を覆って繋ぐ黒い皮膜が下腿にまで達した。ここまで成長すると私にもそれが何か分かる。これは鳥の翼ではない、コウモリの羽だ。
 肩から足の先まで至る黒い皮膜を隠すため、衣類には気を付ける必要があった。生地の薄いドレスは着る事が出来ない。スカートも諦めた。夫にも隠していたのだが、ある日浴室で着替えをしている時に見られてしまった。夫は声も出さずしばらく私の姿を凝視して、そのまま何も言わずに浴室から出て行った。それ以来、彼は私を避けるようになり、家にも戻らない日が多くなった。

 もう幻翼痛の通院はやめよう、そう思った。ただ、この姿で生活するのは窮屈だ。最後にドクターに会って、これからの対応をアドバイスしてもらおうと考え、病院へ行った。
 私の話を聞き終えたドクターは、立ち上がり、私の目の前でシャツを脱ぎ始めた。セクハラ!、と身構えたが、ドクターは後ろを向いて、背中を私の方に見せた。そこには私と同じコウモリの黒い翼が付いていた。
 何を言うべきか思いつかず戸惑っていると、ドクターは振り返って私の方を向いた。
 「もっと早く伝えるべきでした、ご免なさい。あなたのようなコウモリの遺伝子を持っているサブタイプを、私達はずっと探しているのですよ。ご存知ですか、コウモリはウィルスに感染しても病気が発症しない事を。コウモリの遺伝子を活性化させたホモサピエンス・サブタイプ・キロプテラも、ウィルス感染に耐性があるのです。あなたも、私も、そのサブタイプです。けれど、他のホモサピエンスは違います。彼らは近い将来に発生する次のRNAウィルス・パンデミックを乗り越えることが出来ません。その後、彼らが居なくなったこの地球上にホモサピエンスの遺伝子を残していくのは、私たちの役目なのです。これからは、その自覚を持って生きてください。」
 そう言ってドクターは私の体を黒い翼の上から抱きしめた。





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