私の声に棘があれば



by 2024.02.01.



 「長い間お疲れさまでした。これであなたのボイストレーニングは終了しました。あなたの声は見違えるほど、あ、いや、聞き違える程聞き取りやすいきれいな声になりましたよ。」
 以前は私の言う事が分からないとしょっちゅう怒鳴っていた夫も、最近ではあまりそれを言わなくなった。やはり確実にボイストレーニングの効果が現れているのだろう。夫の罵声を浴びる事が少なくなったのが一番うれしい。もっともそれが完全に無くなったわけではないのだが。
 トレーナーは、続けた。
 「さて、この後なんですが、1ヵ月後には無料の定期確認があります。その後はオプションで3か月ごと、あるいは6か月、1年ごとのアフターレッスンが用意されていますが、いかがなされますか?」
 私はこの時を待っていた。このボイストレーニング教室に来た本来の目的を伝える時を。私は真っすぐにトレーナーの顔を見て言った。
 「続けてLesson Zをお願いいたします。」
 トレーナーは一瞬体をこわばらせた気がする。そしてその後、いつものように微笑みながら話した。
 「おっしゃっている事が、良く分かりませんが。レッスンをもう一度繰り返されるという意味でしょうか?」
 私はひるまなかった。
 「いえ、今までのレッスンではありません。Lesson Zを希望いたします。」
 1年間ここに通ってトレーニングを続けたのはこのためだ。親友の愛子から、この教室でこれが実施されている事を知って、この時のために書類もそろえて来た。私はバッグの中から病院での診断書、怪我の程度を写した写真、被害を受けた日数の記録を取り出した。そして最後にボイスレコーダーを机の上に置いて、言った。
 「ここには、今まで夫が私に向けて語った言葉が録音されています。自分でもう一度聞くのはつらいので、後でご確認頂ければありがたく存じます。」
 しかし、トレーナーは今度は無表情のまま答えた。
 「申し訳ありません、おっしゃる意味が分かりません。ご家庭でのトラブルについては、別の所に相談された方が良いのではないでしょうか。」
 最初の反応がどんな風かは愛子から聞いている。私は書類とボイスレコーダーを机の上に置いて椅子から立ち上がった。
 「これは、ここに置いて行きます。どうか、ご検討いただいて私の希望をお聞き届けください。お願いします。」
 そう伝えて、返事を待たずに部屋を出た。
 数日後に、書類とレコーダーの忘れ物を引き取りに来てくれという手紙が来た。けれども、これで望みが消えたわけでは無い。それも知っている。

 1ヵ月後の定期確認の日、いつものトレーニングルームではなく、2階上の別の部屋へ案内された。そこには私のトレーナーが、壁一面の鏡を背にして座っていた。鏡の向こうには人の気配がした。マジックミラー越しに数人が私を観察している、そう確信した。トレーナーの前の机には、私が1か月前に預けていた資料のコピーが置かれている。彼は私が椅子に座るのを待って話し始めた。
 「あなたのご家庭の事情は当方でも調査させていただきました。これからいくつか質問いたします。私たちの調査内容とあなたのご返事に矛盾が無いかを確認させて頂くためです。」
 そして、私たちが結婚してからの経緯が繰り返し問われた。

 結婚した翌日から夫の態度は豹変した。私の一挙一動にクレームを付けて来た。最初は単なるわがままだろうといなしていたのだが、反論するたびに声を荒げて威嚇し、やがて力で私を支配しようとするようになった。力による支配は徐々にエスカレートしていった。
 耐え切れなくなって相談所に駆け込んだが、調査員に対する夫の態度は私に対するそれとは全く異なった。妻を愛する優しい夫を演じ、体の傷は私が転んだり自分で傷つけたものだと主張し、妻の精神状態を心配していると、むしろ私の体調をいたわる言葉を語りさえした。
 この苦境から逃れる方法は無い、と絶望した時、愛子の事が思い出された。小学校から高校まで同級で、まるで双子の姉妹のように青春時代を共にした親友が今どうしているのか、無性に声が聞きたくなった。ただ彼女の夫は転勤が多く、一時家族全員で海外に転居していて、最近は連絡を取れなくなっている。私は故郷の友人を伝って、やっと愛子の今の住所を聞き出し、彼女に手紙を書いた。声が聴きたいと、私の携帯番号も書き送った。しばらくして私の携帯に未登録の番号から電話がかかって来た。私はそれが愛子からの連絡だと確信して電話に出た。
 「もしもし、愛子?愛子でしょ?」
 「久しぶりね。」
 その声は確かに愛子の声だった。しかしどこか違う、そんな気がした。
 「愛子、あなたに会いたいの。会って話がしたいの。」そう言う私を彼女は遮った。
 「待って、あまりしゃべれないの。メイルアドレス教えて、メイルで話す。」
 そう言って突然に電話を切った。
 私は彼女に長い手紙を書いて送った。今の境遇、夫から受けている仕打ち、そして解決法が見つからず毎日苦しい思いをして生きている事を。
 愛子からメイルが来た。
 *****
 手紙呼んだわ、あなたが私と同じ状況になっているのを知って、びっくりしている。
 でも、最初にお願いする事がある。
 このメイルを読み終えたら、直ぐに消して。プロバイダーに残っているメイルを消すのも忘れないでね。そうしないと、あなたにも私にも大変な事が起きるかも知れない。だから必ず守って。
 それと、もう一つ。これからあなたに伝える情報は、私から聞いた事を誰にも言わないで。私もあなたに言ったという事は誰にも話さない。私がそれを誰から聞いたかも話せない。そんな内容だと理解してね。これから教える事をあなたが実行するかどうかは、あなた自身が一人で決める事。
 先ほども書いたけど、私も夫のDVから逃れられない状態だった。でもある人から夫を排除する最後の手段を教えられた。ボイストレーニングよ。トレーニングをしてくれる場所は添付した地図に書いてある。と言ってもそれだけでは良く分からないよね。仕組みや方法はそこで教えてくれる。ただし、通常のトレーニングを申し込んで、それを終了した後になる。その時に「Lesson Zを受けたい」と言うのがキーワード。最初は知らないふりをされるけど、何度でも繰り返すこと。「Lesson Z」よ。
 肝心な事を書き落とすところだった、あなたが受けた被害を、調べられるだけ可能な限り集めてその時に提出する事。それが無くても受けてくれるかどうかは本当は分からないけれど、私はそうするように言われた。
 本当は会っていっぱい話したいけれど、この事をあなたに伝えた以上、あなたと会う事は難しくなった。さびしい。言わないでいて昔のようにあなたと語り合う方が良いか、今も迷ってる。このメイルを送るべきか、本当に迷ってる。これがあなたに届いた時は、もうあなたと会えないだろうと決心したと言う意味
 *****
 文末の挨拶もなく、メイルはそこで終わっていた。
 私は教えられた施設にボイストレーニングを申し込んだ。

 最後の質問に答えた後トレーナーは部屋を出て、しばらくして戻って来た。
 「あなたのご希望通り、Lesson Zを開始する事が了承されました。ただし、あなたがこのLessonの内容をどれだけ理解されているかまだ確認できていませんので、その詳細を説明した上で再度ご希望をお伺いします。」
 そう言いながら、1枚の書類をテーブルの上に置いた。
 「これは、このLessonについて絶対に口外しないと言う誓約書です。まず最初にこれに署名していただきます。」
 私は引っ手繰るようにその誓約書を取りサインした。私の心は歓喜していた、これでやっと解放される手段が手に入る。
 トレーナーは私の署名を確認して壁際に移動した。すると正面の鏡に大きなディスプレイ画面が表示され、これから開始されるファイナルレッスンの説明が始まった。
 「基本的な原理は、モンゴルの伝統歌唱法ホーミーと類似しています。あなたの声に別の音を付け加えるのです、ヒトには殆ど聞き取れないような高周波の声を。そしてその高周波に独特のリズムを加えます。この特殊なリズムが、話す相手の体細胞のテロメアを破壊します。」
 正面のディスプレイには、タイムラプス撮影された培養細胞が次々に壊れて行く映像が流される。
 「テロメアを破壊された細胞は一定期間の後、細胞分裂を中止します、すなわち死に至ります。すぐに影響が現れるわけではありません。あなたがどれだけ語りかけたかに依りますが、体全体に影響が出るまでには暫くかかります。あなたが直接関与したとは誰も考えないでしょう。」
 私は画面に見入っていた。だが、ある疑問が湧いた。それを予想していたようにトレーナーが説明を加えた。
 「この声はあなた自身の細胞には殆ど害を及ぼしません。骨伝導と空気伝道とのわずかなタイムラグが防御信号を発生し、あなたの細胞を守ります。完全に無害になるとは言えませんんが、ほぼ無視できるレベルと言って良いでしょう。ただし、あなたの声を高性能の録音装置で再生して聞いた場合は、あなた自身も同じ影響を受ける事になります。その点は注意してください。」
 熟慮のために本契約は2週間後で良いと言われたが、私はその日のうちに契約を決めた。そして、前よりも難しい厳しいレッスンが始まった。

 効果は数か月して徐々に表れた。以前はいつも元気でジムのトレーニングも欠かさなかった夫が、体がだるいとか頭痛がするとか食欲が無いと訴える事が多くなった。
 「あなた、だめよ、ちゃんと食べないと。今日はステーキ肉を買って来たから、今から焼いてあげる。いつものようにミディアムで良いわね。ソースは何にする、ニンニクを入れたバーベキューソースにしようか。それとも嗜好を変えて、ポン酢なんかも合うかもよ。ああ、その前にスープ出さなくちゃ。パンプキンスープにしようか、あっさりコンソメスープが良い、どっちがご希望。」
 「君は、最近よくしゃべるようになったな。」
 「あら、この間も同じことを言ってたじゃない。私はいつもと同じよ、変わりないわ。」
 「そうかな・・・」そう言って夫は崩れるように椅子から床に座り込んだ。
 「あなた、どうしたの、大丈夫。」
 夫は床から体を起こそうとしたが、横のソファーにもたれかかるのがやっとだった。私は救急車を呼んだ。
 病院の個室で私はつきっきりの看病をした。夫の枕元に座り一日中優しく語りかけた。入院して2週間目に夫は「全身衰弱」で亡くなった。

 葬儀を済ませ、遺産相続を業者に依頼して、あわただしい数日が過ぎたある日、私宛に旅行代理店から書き留めが届いた。配達日指定で送られて来たものだった。封書の中には、3週間の旅行プランとそのチケットが入っていた。
 「この度は、私どもの旅行代理店にツアーをお申込みいただきありがとうございます。奥様には黙っていて、結婚記念日に驚かせたいとのご主人様からの依頼があり、このような突然のご連絡となってしまいましたが、ご主人様のお気持ちを汲んで、ご了承いただきたく存じます。私たちの練りに練ったプランです。行ってらっしゃいませ、すばらしい旅行になりますように。」
 そうだ、今日は結婚記念日のはずだった。
 チケットには夫からの手紙が添えられていた。
 「君が僕の所に来て3年がたった。最初は君も僕も戸惑うことがいっぱいだったね。結婚前にお互いの性格がよくわかっていなかった事が原因だろうな。正直な所、君の浪費癖があんなに酷いとは思ってもいなかった。怒って手を出したことも何度かあったが、許してほしい。でも、君はとても努力してくれた。ずいぶん変わったよ。もう毎日の高額請求書で悩むことは無いだろうと信じている。そこで、この際大奮発して旅行を計画した。今までで最大の出費になるかもしれないけれど、これは浪費じゃないよ、これは君の努力に対する僕からのプレゼントだ。一緒に旅行を楽しもう。」
 何の事よ、何を言ってるの。
 私に浪費癖があるって、そんなわけないでしょ。悪いのはあなたよ、私が楽しんでいた毎日の買い物にいちいち文句を言って、暴力で止めようとした、あなたが悪いのよ。私は悪くないわ、絶対に悪くないわ・・・





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